絵を生涯の「生き方」と決めた
私の今までのストーリーです。
アーティストらしかぬ世間の目をすごく気にするメンタル弱めの私が、専業ではなく兼業画家として精神的に心地良く活動できる術を見つけた私の小さな物語です。
この記事では、私が絵を活動として決めたいきさつと、私自身のプライベートなことについて紹介したいと思います。
絵が寄り添ってくれて良かったと少し感情的なお話も。少しお付き合いいただけたらとても嬉しいです。
草花の観察と漫画大好きな幼少時代
愛知県の郊外で過ごした幼少時代、周りは宅地と田畑という環境の中で育ちました。
道すがら草花を見つけながら、観察するのが大好き。持ち帰って本で調べたりチラシの裏でスケッチするのが、子供時代のお遊びでした。
小学校で初めてスケッチブックを買ってもらい、子供ながら格上げしたような誇らしい気持ちになりました。
しかし、夢は絵描きではなく、漫画家。それは‥自宅には、常に漫画が溢れている環境。
母が漫画大好き。予約している週間マンガを本屋で受け取るのが、その頃のおつかいでした。
もちろん読みました。そしてハマりました。
そう私は、すっかり漫画オタク少女になっていたのです。
柊あおい、萩尾望都、陸奥A子、白土三平‥ジャンルも様々でした。
漫画家になるべく友達と共同作業で原稿作り、そして公募(りぼん)、落選続き‥すっかり自信を無くしました。
そんな時に学校内の絵画コンクールで大賞に選ばれたのです。地味で目立たない+落選続きで自己肯定感は下がり気味な私が
全学年の生徒から羨望の眼差しを浴びたのです。子供ながらに表現し難い高揚感を味わいました。
絵を描くことで、私という存在を認めてもらえる。そう確信した瞬間でした。
熱血美術部で油絵と出会う〜中学時代
中学に入り部活は、迷わず美術部へ。当時の顧問の先生はとーっても熱い方で、例えるなら体育会系。
朝練の30分クロッキー、石膏デッサンと言った基礎から始まり並行しながら選択肢無しに油絵を進められました。
画材も発する匂いも、今まで使ったことのある水彩やアクリル絵具より独特‥言われるがまま名画の模写を何枚も描きました。(当時はゴッホ、シャガールを好んで描きました)
描き続けるうちに、すっかり油彩画の魅力にのめりこみました。
それは‥①混色が織りなす表現幅の広さ②失敗しても何度でも重ねられる。③デメリットに感じられる乾きの遅さが、次に加えるモチーフをじっくり考案できる。
私的感点では、油彩独特の匂いを嗅ぐとスイッチが入るんです。美術部の懐かしい匂いを思い出します。
いつか大物になる‥勘違い高校時代
高校もやはり美術部に。ただ先生もこれっという課題を出すわけでもなく、時間内に好きなことやってくださいといった、とーってもゆるい雰囲気。
中学時代にスパルタ美術部を経験した私には馴染めませんでした。とりあえず部活には行き、休みの日は、ひたすら大作制作を進める日々を過ごしていました。
いつかは、大きな公募展で認められて、画家になると心密かに思っていました。(なんと自惚れ‥恥ずかしいです)
高校も2年生の頃には、迷わず美大を目指しました。画塾に通いながら絵に注力する日々でしたが、なんと家庭事情により美大進学を諦めざるを得ないことに。
家のこともあるので、とりあえず働くことを決意。ただ経歴も無い、ただ絵が好きな学生の分際で職種は絵に関わることがしたいう無謀なこだわりよう。
就活は、デザインと書いてある会社を電話帳でピックアップしてアポ入れポートフォリオを持って、ひたすら売り込みました。
(学校も事務、販売系なら紹介できるがデザインは前例が無いと相手にされませんでした)何とかアパレル系の会社のデザイン部に無事合格、3年勤めました。
精神的にも疲れ、時間もない会社員時代
激務で全く自分の時間が無いことに疑問をもち、アパレル会社を退職。企業系なら、給与面も安定してるしと安易な選択で車両の取り扱い説明書作成の仕事に、細かな作業ですが淡々とこなすという感じです。
業務はノンストレスで悪くないなという印象。
しかし若かったから?思い立って、もっと自由に絵の勉強をしなきゃとイギリスにアート科の短期留学のため渡英。もちろん会社を辞めて、僅かな資金で存分にアートを吸収しました。
さて、帰国後は自宅で制作に没頭していましたが、絵に全く関心のない両親からは働かず絵ばかり描いて大丈夫?という空気感、居心地悪くそれを脱する為にもとりあえず働かなければと、制作時間を考慮して社員ではなく時短アルバイトに、仕事はオーガニック食材を扱う宅配業者で会員向けの広報制作を担当、物作りと併せて企画する楽しさもあり職場の居心地も良かったのですが、業績不振の煽りを受け内勤アルバイトは解雇という、精神的にかなりのショックを受けたまま退職。ただその時に感じたのは、人との関わりや自発的に企画する楽しさでした。
ずっと内向的で人みしりと決め込んでいたので黙々と作業する仕事が向いているだろうと決め込んでいました。その証に人前で話すのが苦手と洗脳されていて、展覧会でのプレゼンは緊張MAX。
全く自信が無く喋り出した途端につまずくと頭の中は真っ白、言いたいことの半分も伝えられません。
ある著名なアーティストが言ってました「作家は作品だけ作っていても駄目、自分も前に出ないと」と言う言葉を思い出しました。あの時のワクワクがあるのなら自分は変われるかもと、今までの職種とは全く違う記者、編集の仕事を選びました。働き出したら無我夢中ながらも楽しかった。目標を持って頑張ってる人や異業種の方の取材をし、それを原稿にする。
会話のレクチャー術や文章力、度胸がつきました。その頃から私の中で働くことに対する考え方が徐々に変わってきました。
「たくさんのスキルを身につけることができて、お給料も貰えるなんて最高!」と。俄然働くことに意欲が湧き、思考が仕事に傾いていました。
そんながむしゃらに突き進んでいくうちに、なぜか編集長に昇格。普通なら喜んで良いはずですが「なぜ、私?」と戸惑いが大きかったです。
しかしこれは任務だと、益々仕事にのめり込む日々、ハードな記者生活に身体も精神も限界にきていました。それと並行して「絵は描けてるの?」と自問自答を繰り返していました。
兼業画家という選択
仕事って評価が分かりやすいので良い方向に向かえば認められる心地よさを味わえる。
画家は、いくら制作しても掴み取れない評価を待つのみ、それが怖くて逃げていたのでは、真っ向から画家として向き合おうとしない自分に気づいた時、落胆しました。そして絵を描く生活を軸にしながら働こうと思い直しました。
もちろん悩みましたが、このまま絵を描かずに時間だけが過ぎていくわけには、いかないと私が選んだ選択肢は時短パートでした。収入は減りますが、今まで働いた資金もあるので、とりあえず納得できるまでやっていこうと…。私にとっては新境地でした。
本当は、きっぱりお勤めを辞めて専業の道もありましたが、正直、画業だけではやっていけないし、活動をするにも費用がかかります。
そんな事を考えてしまう小心者で、①資金がどんどん減っていく ②収入不安定で無収入もあり ③大きな賭けとして時間を費やした公募展では結果がでない。
メンタル弱めなので少しでも収入があることは、精神安定剤の役目を果たしてくれまう。それに私、実は時間にルーズ‥縛りが無いと甘えてやるべきことをどんどん後回しにしてしまいます。
働くことで、時間の制約ができて効率よくこなす事ができます。(でもこれは直していかないといけないと思っています)
現在も、このスタイルで制作活動を続けています。納得してますがいつかは専業に!と思い描いています。
私のアーティストロードマップ
10代の頃に油絵を描き始めて今も油絵一筋です。始めた頃は、前編でもお話しましたが名画の模写、デッサン等基礎を学びました。美大を目指した画学塾時代には、更に基礎に磨きをかけました。
イギリスの短期留学に関しては技術というより、美術史を主に学びました。その頃の絵のスタイルは、写実性を全面に打ち出した作品でした。今まで習ってきたなかでこれが正解と思っていました。
確かに周りの反応は凄く良かったです。両親もなぜか喜んでいたし、賞も取れやすく順風満帆?でした。しかしどこかで物足りなさを感じていました。
それは「自分の核となるものがない、個性が無い」でもどうやったら自分の作品と呼べるものができるのだろうと悩み、美術史を読んだりギャラリーや美術館に足繁く通っていました。
何となく影響されて抽象画を描いてみたり…コンセプトも無い抽象画なんて空っぽで、今見ると恥ずかしいです。そんな自分探しをしていると絵を描くことに、ためらいがあり制作スピードは遅くなる一方。
気持ちは出口の無いトンネルをさまよっている感じでした。そんな時に、デザイン専門学校に通っていた友達から公募展を紹介されました。
ジャンルは現代アート、「アート?アンディーウォホールとか…デザイン系かな」知識は曖昧でした。それに油彩画家になるんだから画壇系のはず!私はデザインじゃないと決めつけていました。
しかし何でも掘り下げたい性格上、現代アートに関わる情報を読み漁りました。その内にまんまと⁉︎?現代アートの魅力にハマってしまったのです。理由は、話し出せば長くなりますがコンセプトの重要性とそれを表現として作品に落とし込むこと。制作にルールは無く自由な表現方法。無くしたピースを見つけたような…私の中で何かが変わった瞬間でした。現代アートに感化された私は早速制作に挑戦。
モチーフは中国旅行で購入したキッチュな絵柄がお気に入りの保温便を3本配置し、マーガレットが周りを囲む、率直に好きな物を好きな配色で仕上げた作品を描き上げた時、今までにない充実感を味わいました。
「これが私の作品だと言える」やっと自分の目指す指針を見つけたのです。
「自分の絵」を見つけた公募展
10代の頃に油絵を描き始めて今も油絵一筋です。始めた頃は、前編でもお話しましたが名画の模写、デッサン等基礎を学びました。美大を目指した画学塾時代には、更に基礎に磨きをかけました。
イギリスの短期留学に関しては技術というより、美術史を主に学びました。その頃の絵のスタイルは、写実性を全面に打ち出した作品でした。今まで習ってきたなかでこれが正解と思っていました。
確かに周りの反応は凄く良かったです。両親もなぜか喜んでいたし、賞も取れやすく順風満帆?でした。しかしどこかで物足りなさを感じていました。
初めての作品を現代アートの公募展に出展。その当時(今は開催されていません)かなり盛り上がっていた公募展でパルコ主催で審査員も一線で活躍している方々、優勝者は今後の活躍の場も広がる仕組みになっていたし注目度も高いものでした。夢がありますよね。
さて作品を搬入時に見た他の出品者の作品に、正直度肝を抜かれました。テトラポットに鎖が巻いたオブジェ、キャンバスにCDディスクを貼り付けて、その上から色を乗せた平面作品などなど…。
私の固定概念なんてめちゃくちゃ小さいな〜なんて苦笑いでした。こそこそと搬入を終えて「どうせダメだろうな、全然インパクト足らないよ」と落ち込んでいましたし、「やっぱり私には今まで通り洋画の方が向いているのでは」とかなり逃げ腰でした。なので、審査発表会場には行きませんでした。当日は「今頃、優勝者の発表されてるんだろうな〜」と自宅でぼんやり思い返していた時、公募を共にした友達から電話があり「ミチの作品が選ばれてて、今審査員が講評してるよ」と。
一瞬何を言っているのか分かりませんでしたが、少しずつ状況が飲み込め始めた時、嬉しさと同時に「評価されたんだ」と何とも得難い喜びをじんわりと感じました。その後、単純な私はこの公募展がきっかけで「私が進む道は現代アート」と迷いなく今も現代アーティストとして活動しています。
現代アートの作品作りをするうえで、やはり土台となる基礎は学んできて良かったなと実感しています。表現方法の幅も広がりますし、構図は絵画の重要要素であり仕上がりの一体感に差が出ます。
下手ウマじゃないですけど、そんなバランスを保つ作品作りをするさいも基礎(核)がしっかりあることが、作品の質にも違いが出ると思っています。
現在の活動と今後の夢
不定期ですが、お世話になっている銀座ギャラリーでの展覧会、個展を開催。InstagramやSNSで気にかけた方が見にきてくださりお買い上げいただいたりと、そこからコレクター様と縁ができたりと地方在住ながら細々と原画販売をしています。花や植物をメインモチーフに使うこともあり、オーダー受注もしています。また、NY在住のアートディレクター刊行のアートマガジンに日本人アーティストとして掲載。
海外サイトでの作品紹介も只今開拓中です。今後は、個展企画も自身の作品の世界観を打ち出した空間作りをし、アートに馴染みのない方にも関心を持っていただき「ここにいたら心地良かった」そんなラフな気持ちで見にきていただける展覧会を目指しています。前編にもお話ししましたが、兼業というバランスを取りながら制作を続けるスタイルも良いですが、絵と絵に関わる日常生活だけの専業は、もちろん夢です。
いつかは叶えたいと何事にも挑戦し邁進します!
まとめ
ここまで読んでくださりありがとうざいます。このサイトでは 「絵、アートが好き」「油絵が気になる、知ってみたい」「油絵を始めてみたい」そんな方のお役に立てるような情報を発信しています。
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それでは、またお会いできることを願っています!